2012年



ーー−9/4−ーー 小さな品物に託す思い


 先日のグループ展でのこと。私が昼食で席を外している間にやってきたある来場者が、展示してあった私の小木工品や箱もの家具を見て、「この作者は蟻組みに何か特別な思い入れがあるんですかね」と言ったそうだ。それに対して、同じ部屋の木工家K氏が、「大竹さんは木工をスタートした時点で、このような細工が動機のようなものになっているのかも知れません」と応えたとのこと。ちなみに蟻組みというのは、末広がりの形状で凸と凹が組み合わさる木工の技である。私はK氏の適切な対応を嬉しく感じた。

 木は組み合わせることによって、強い接合になる。すなわち木組みである。これは優れた人類の知恵であり、最も歴史が古く、また重要なテクノロジーの一つではないかと思う。私は子供の頃、近所の建築現場で、大工がホゾ加工をしている作業を、時間が経つのも忘れて見ていたことを思い出す。そして、木切れを拾って家へ帰り、見てきたことを真似したりした。子ども心に、木と木を組み合わせて接合するプロセスが、とても魅力的に見えた。それはヒトの遺伝子に記録された、数千年に及ぶ知恵の伝承の、まさにルーツに触れた体験だったと思う。

 木組みと言っても、組み合わさる部分の形状によって、強度や機能が違ってくる。例えば、丸穴に丸棒を挿して結合するダボ接合は、四角断面のホゾと比べて堅牢性が劣る。回転に対する拘束力が無いから、緩みやすいのである。垂直に引き抜く力に対して、捻じりの耐力は関係ないように思うかも知れないが、そうでもない。穴に突っ込まれた棒を引き抜くとき、無意識のうちに捻じったりするのは、そのためである。量産の家具は、椅子でもテーブルでも、ダボ接合が多く使われる。それは、加工がし易いからだが、強度的には不安が残る。ダボがすっぽり抜けて、バラけてしまった椅子などを、見たことが無いだろうか?

 蟻組みというのは、スライドさせて結合する技法である。組み合わせの断面が台形だから、一方向にしかスライドできない。つまり動きが拘束される。そのため、組み上がれば曲げに対する耐力を持つ。これも形状による効果である。ただし、スライドして結合するという性格から、寸法が丁度良くなければならない。きつ過ぎては入らないし、ゆる過ぎては抜けてしまう。ホゾ組みだったら、多少ホゾを大きめに作って、無理やりホゾ穴に叩き込むという事も、要点を押さえれば出来ない事ではない。ところが、蟻組みでは、それは許されない。ピッタリの寸法で加工しなければ、役に立たないのである。蟻組みは、精密な木工技術の一つの典型だと言える。

 私が蟻組みをポイントにした小物を作るのは、加工精度の良さをこれみよがしにアピールするためではない。こういう技術が木工家具作りの根底にあるということを、理解して貰うのが目的である。私が作る椅子は、接合部は全てホゾである。ダボに強度を委ねることはしない。そのホゾも、椅子の場合は、きつ過ぎず、ゆる過ぎず、ちょうど良い締り加減で加工されていることが大切だ。ホゾの木組みは外部からは見えないが、蟻組みに見られるのと同程度の加工精度を、私はホゾ加工にも適用している。そこら辺を読み取って頂きたいというのが、私の狙いである。加工精度に関するこだわりが、製作活動の基本理念として貫かれていることを、私は小さな品物に託しているのである。
 



ーーー9/11−−− 院試の記憶


 次女が大学院の入試を受けた。部活(ヨット)に夢中で、勉強がおろそかな娘は、普段の成績が低迷していて、指導教官からボーダーラインだと言われていたそうだ。この夏は院試に向けて、本人が言うところの猛勉をしたらしいが、筆記試験の出来はどうだったのか。最後の面接で、微妙な事を言われた娘は、泣き落としで面接官をうろたえさせたそうだが、結果としてなんとか合格できた。親としてはホッと安心したわけだが、ふと過去の自分の苦い出来事を思い出した。

 私も大学4年の秋に、院試を受けた。その発表の日の昼休み、まだ合否が知れぬまま、山岳部の部室で暇をつぶしていたら、先輩のS氏が入ってきて、「合格したそうだな、おめでとう」と言った。たぶん関係者から結果を聞いたのだろう。私は嬉しくなって、「それはどうも、ありがとうございます」と返した。するとS氏は「お祝いの乾杯でもしようか」と言い出した。私は「行きましょう、今日は私におごらせて下さい」と受けた。そして、居合わせた他の部員と共に学内の食堂へ移動した。

 食堂の中には、一般学生がひしめいているフロアーから仕切られた形で、主に教職員が使う区画があった。そこではビールが飲める。我々は一つのテーブルに陣取り、ビールとつまみを注文した。そして、S先輩のご発声で乾杯をした。私は、「さあ皆さん、ジャンジャンやって下さい」と、調子の良い事を言って、場を盛り上げた。

 飲み始めてしばらくしたら、偶然隣のテーブルに、私の指導教官であるK助教授が、他の教官と共に着席した。助教授は、隣のテーブルで浮かれて騒いでいる学生の中に私を見とめたようだった。目が合ったので、私はビールのグラスを掲げて乾杯のポーズを取り、「これはK先生、お世話になりました」と挨拶をした。K先生はちょっと驚いたような顔をしたが、黙ったままお連れの方へ向き直った。

 昼休みが終わり、研究室へ戻った。そうしたら助手の人が、「お前落ちたんだってな」と言った。そこへK助教授も入ってきて「残念だったね。学内から落ちることは珍しいのだが・・・」と言った。私は先ほど食堂で、K助教授が怪訝な顔をしていたわけが理解された。「こいつ落ちたのに何故はしゃいでるんだろう?」と思ったに違いない。

 デタラメを言って私にビールをおごらせたS先輩は、その後民間の研究所を経て、理系大学の教授になった。




ーーー9/18−−− Fine Wood Working という雑誌


 画像は、直径40ミリの丸棒の端に、面を取る(角を切って落とす)工具である。円柱脚の椅子の脚下端を処理するために自作した。と言っても、20年ほど前に作ったもの。以来、数百本の丸棒の面取りに使ってきた。自分で言うのも何だが、便利な道具である。

 そんな使い古した道具のことを、何故今更書くことになったのか。先日、ブログにこの道具を使っているシーンの画像を掲載した。製作中のアームチェア06の作業工程の一部である。それを見た知り合いの人が、電話を掛けてきて、この道具をもっとアピールすべきだと言った。

 これまでにも、この道具は何度かブログに登場している。ホームページの「木と木工のお話」でも取り上げたことがある。道具の仕組みに関しては、そちらに詳しく書いてあるから、ここでは省略したい。拙書「木工ひとつばなし」の中でも、画像入りで触れている。わたしはそれらの露出で十分だと感じていたが、知り合いは米国の木工雑誌に掲載されたことを強調すべきだと言う。その事も、2011年8月24日のブログで、記事の画像を入れて紹介している。ただ、ブログの記事は一過性なので、印象に残らない可能性は高い。

 米国にFine Wood Working という木工雑誌がある。日本でも、購読している人は多いようだ。木工の道に進んだ者は、とりあえず数年は購読するというのが、お決まりのパターンではなかろうか。私も木工を始めた時に、先輩からこの雑誌の事を聞き、数年間取り寄せて読んでいた。その誌面に、読者が投書するコーナーがある。Method of Work というタイトルで、読者が考案した加工法を紹介するものである。

 そのコーナーに、この面取り道具を投書した。一応審査があり、イラストも編集部が描き直すなど、まともに手間をかけるので、採用まで半年ほどかかったか。結局1994年の104号に掲載された。原稿料を送るとの連絡があったが、換金手数料を取られるのが馬鹿らしかったので、代わりにオリジナルTシャツを送ってもらった事を思い出す。

 何故そのような投書をしたのか。今から考えれば、まだ木工家として駆け出しの頃で、背伸びをしたかったのだろうと思う。著名な海外の木工雑誌に載ることで、上のランクに進んだような気になりたかったのではないか。世間の評価が無い間は、自分から発信するしかない。現在ならネットなどで情報発信ができるが、その当時はそのような手段は無かったのである。ちなみに、この雑誌に投書をして掲載された日本人は、私が知る限り他にいない。

 そのように、多少不純な動機で行なった事だったので、その一回限りで終わってしまった。その後も続けていれば、別の展開があったかも知れない。今更言っても仕方ない事だが、かといってこれからまた心機一転取り組むと言う気にもならない。若さ故の行動力によって実行された、懐かしい出来事ということにしておこう。

 ところで、私がその雑誌を購読し始めた頃、ちょっと奇異に感じた事があった。それは、上に述べたMethod of Workというコーナーが、表紙のすぐ後に位置していた事だった。日本国内の雑誌を見れば、どのようなジャンルであっても、読者の投書などというのは巻末に押しやられているものである。ところがこの雑誌では、主たる記事の前に、このコーナーを配置していたのである。違和感があって、最初は馴染めなかったが、そのうちに編集者の真意が分かるような気がしてきた。

 実践的なアイデアを重視するという方針なのだろう。メインの記事は、いずれも木工のオーソリティーが書いている物だから、充実した内容である。しかし、それとは別に、アマチュアが提案するアイデアでも、優れたものはどんどん紹介する。とにかく面白いアイデアが目白押しである。中には突飛な物もある。記憶に残っているものでは、長い板を自家用車で運ぶ方法というのがあった。板の二か所をロープを結び、ロープの端に結び目を作って、窓ガラスの上端で挟み、車のサイドに板をぶら下げるというものであった。

 10人のプロのアイデアより、100人のアマチュアのアイデアの方が、バラエティに富んでいる。断片的な情報の寄せ集めだが、むしろその中に新しい創造のヒントが見つかるかも知れない。なんと言っても読んでいて楽しいし、共感を持つ。市民が対等な立場で意見を出し合うことが一般的な、いかにも米国的なやり方だと思う。

 しかもそれを巻頭に持ってくる。そこがなかなかユニークであり、また優れたところでもある。そのような構成により、読者との距離が縮まる効果もあるだろう。中には投書の常連もいるかも知れない。このコーナーを一番楽しみにしている読者もいるだろう。どのような雑誌でも、あるジャンルに特化されたものは、マンネリ化を免れない。しかしこのコーナーは、ほとんど無限の可能性で、読者を引き付けるのである。














ーーー9/25−−− 間の悪い人


ふと思い出したことがある。

 技術専門校で木工を学んでいた時の事。指導教官から指示された作業、椅子の脚の部品の長さを切りそろえる加工を間違えて、目的とする寸法より短く切ってしまった。ロクロ加工を施された部品を、十数本である。それに気が付いた瞬間、血の気が引く思いがした。

 取り返しのつかない事だ。ごまかしようも無い。私は教官のところへ飛んで行って、正直に「間違えて短く切ってしまいました」と告げた。厳しい指導で知れた教官である。私は怒鳴られることを覚悟していた。しかし予想に反して、教官の反応は穏やかだった。「今度は間違えないようにしなさい」と言われただけで済んだ。私は気が抜けた気分になったほどであった。

 それを脇で見ていた同僚生徒の中年男性が、「大竹さん、このタイミングが大切なんですね」と言った。そして、次のような事を言った。

 少し前に、やはりちょっとしたミスをした。それをごまかそうとしたが、教官にばれた。それ以来、教官は自分に辛く当たるようになったと言う。

 「私は以前会社勤めをしてました。回りの社員の中には間の悪い人がいて、よく上司から怒られてました。人間関係の機微が読めず、押さえどころを外すタイプなんですね。そういう人を見るたびに、私はせせら笑ってました。自分はそんなへまはやらないぞ、要領良く立ち回って、そんな間抜けにはならないぞ、と心に決めてました。ところが今では、私自身がそれですわ」






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